山月記 Back to the nature, escaping from being human.

李陵・山月記 (新潮文庫)

李陵・山月記 (新潮文庫)

久しぶりに読書会に出席した。あらためて数えてみると、去年は2回しか出席できず、F先生とは丸1年以上もお会いしていなかったことになる。

山月記は高校のときの国語の教科書に掲載されていて、自分にも「尊大な羞恥心」や「臆病な自尊心」が確かにあって、人前で自分が本当に欲しているものを堂々と宣言するとか、実力について評価されることを可能な限り避けて生きているよな、と共感したことを思い出した。しかし、その程度のことを訴える小説ならここまで多くの人の心を捉える作品にはならなかったはずであり、きっと私が読み込めていない何かがあるのだろうな、と今回感じた。

人間関係の中で生きるのは喜びもあるが、辛いこともたくさんある。常に他人の目を通じて、理想の自己イメージとは異なる自分の姿をつきつけられる。李徴はそれを拒否したために、辛さを感じる心を放棄し、人間を辞めた=発狂したのではないかと思う。この小説は中国の「人虎伝」をモデルにしたが、人が虎になるという超常現象は現実には起こるべくもなく、これは何かの比喩として用いていると考えた方がよい。

一体、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?

私は読書会にて、上記の意味するところを尋ねた。それに対し、「それでは、なぜ李徴はまた人間に戻らなかったのでしょう?」とF先生からヒントが出たのだけど。私は結局、李徴は心を持たない虎でいる方が幸せなんだと思う。李徴のわずかに残る人間の心はそれを嘆きはするけれど、山月の下、人間界を捨て、自然のままに生きる道を自ら選んだのだ。

私の解釈では、李徴はただ発狂しただけであり、頭の中で、自分が虎になった妄想を作り出したことになっている。ゆえに、上記引用文を「全く、どんな事でも起り得るのだ」という表現と共に、人間の想像の自由さ、望めば何にでも変身できる、という敢えて肯定的な意味に捉えて作品を楽しみたい。

ちなみに、高校の授業では、「友達と仲良くしないと、君も虎になっちゃうぞ。」と道徳的な教訓を引き出すこともあるらしい。そんなことを一度も言わなかった某H先生に初めて感謝したい気分になった。(VIVA!我が自由なる森の学園よ。)

この小説の題名が「こころ」であっても全然違和感はないが、先にそんなに大きな内容を包含する題名を作品につけてしまった漱石先生はずるいなーと思う、この頃。