「八日目の蝉」に泣く

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)

ひとりでやれることは一通りやり尽くした感がある。資格取得のための勉強やあらゆる趣味の追求、旅行など。これ以上の「自分磨き」にはモチベーションが湧かず、閉塞感のある現状を打破しようと、誰かと一緒に生きる人生へとシフトしたいのだが…。その理想の「誰か」を一人選べ、と言われれば、大人の男性ではなく、「子供」を選ぶだろうなぁ。
だから主人公の女性希和子が、自分は生めなかった不倫相手の子供を衝動的に誘拐し、いろんなところを転々として生き、最終的には逮捕され、裁判の席で「自分の愚かな振る舞いを深く後悔するとともに、四年間、子育てという喜びを味わわせてもらったことを、○○さんに感謝したい気持ちです。」と発言して、場違いな感謝とバッシングされても、分かるような気がするのだ。
誘拐した女の子は、本来の家庭に戻ってもギクシャクした家族関係に行き詰まり、大学進学を機に一人暮らしを始める。そこで、自分を誘拐した希和子と同じ運命をたどり、妻子ある男性の子供を妊娠してしまう。世間から身を隠すために希和子が入居した新興宗教の施設で一緒に育った女性との出会いから、なぜ自分がこのような事件(または宗教)に巻き込まれたのか、を探求しに一時期暮らしたことのある小豆島を訪問する、そのフェリーの待合室で継母だった希和子とお互い気づかずニアミスがある。(ドクトルジバコみたいな最後だな。)
希和子はなにも希望を持たずに服役を終え、出所するのだが、ひなびた駅前の食堂でラーメンを注文したら、空腹のため思いがけなくおいしく感じ、麺の切れ端までのみこもうとしている自分に愕然とし、打ちのめされる。

まだ生きていけるかもしれない。いや、まだ生きるしかないんだろう。

自然豊かな小豆島で薫と暮らした思い出に浸りながら、フェリーには乗れずに岡山で暮らす日々。なんかね、このへんから妙に泣けてくるのだ。なぜかは分からない。傍目から見れば、すべてをなくしたはずなのに、まだ何か希望があるような気がして生き続ける。それが人生か?でも不思議と悲壮感は漂っていない。真に幸福で充実した時間があったから、だろうか。この本も前述の「瞬間を生きる哲学」と同じく、「人生讃歌」なのであった。