雑談あれこれ

やだなー、おもいっきり元旦に前向きなこと書いておいて、その後、実は落ち込んでいました。冬の気分は変わりやすいの。暗い記事を下書きに保存したものの公開をためらい、また新しい暗い記事を上書きしては消し...それはまるで砂に書いたラブレターのように、書いたそばから波が文字をさらってゆくのです。なんてね。
なんだかこのしょうもないダイアリー、話題に取り上げたご本人に見つかってしまったみたいで。ま、別に気にしても仕方ないけど〜。
さて。こんなワタクシでも、会社では課長です。(課は存在しないですが。苦笑。)人事から分厚い封筒が届いたと思ったら、去年から予告されていた、自由応募分のエントリーシートの山。私が修士で一度就職したときには教授のコネを最大限に活用いたしましたので、そこそこ入ってもよいと思える企業なら、教授推薦とか共同研究のコネを使ったほうが断然効率的だと思います。そうすればおそらく書類選考で落とされることはないでしょう。
ちなみに私が申し渡されたのは自由応募の書類選考では7割を目安に合格としなさいということ。研究内容の説明や人事が出した課題に対する記述で独創性、主体性、論理構成力を判断しますが、3割の合否ラインというのはかなり明瞭に設定可能です。最初のうちは、私の判断で若い人の人生を変えてしまうなんて!?と緊張していましたが、読み進めていくと、いや、これは入社してもらっては困るレベルでしょう、ときわめて妥当な結果に。後悔はしません!
話は変わって、読んだ本の感想など。

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

平野啓一郎さんの方は割と読んでいるので、彼が主張する「分人」思想をある程度理解していると思っています。しかし、応対する他人ごとに、自分の中に別の人格を形成する、というのは平野さんのように器用な人だけが可能で、一般の人は数パターンしか対応できないのではないかと。また、平野さんがサービス精神旺盛だからかもしれないけど、他人が求める自分の断片だけを提供するのもかなり難しいと思います。もし共通点が何も見つからなかったら?そもそもそこまでして受動的に他人に合わせないといけないのでしょうか?一人でいるときの無防備な自分のまま、長い時間を一緒に過ごす人には受け入れてもらえないかしら?自分好みの「分人」で付き合える同志を探したい、とかもっと積極的に自分からキャラを押し出していく場合もあると思うのですよね。ただ、一人の人間として人格の画一性とか統一性を強いられない自由な思想としての「分人」には賛成です。
分人の恋愛観についても疑問を感じます。その人といるときの自分の分人が好き、という他者を経由した自己肯定の状態が愛とのこと。うーむ、確かに以前は結局、他人から愛してもらうことで、自分自身を愛したいんだな、って思ってましたけど、相手の出方に関係なく、素敵な人は素敵だし、好きな人は好きな人だと思うのよ。相手にしてもらえないから嫌いになるなんて、人間として小さすぎる。インタラクションのない関係?に意味があるかと言われそうだけど。自分が見ている世界の中では意味があるんですよ。きっとそこから妄想が始まるのですね。本件はしばらく考えるネタになりそうです。