ザ・マスターにやられる

ここ数週間、いろいろと思うところがあり、それを何かに綴りたい気持ちはあったのですが、うまく表現できないのではないかという心配や仕事の忙しさに挟まれて延ばし延ばしになってしまいました。私は自由な人間で、あまり過去の習慣や一貫性にこだわらないために、何か日々の暮らしで偶然心を奪われる何かとの出会いがあれば、それを柔軟に取り入れたいと思っています。(いや、逆にそういう強烈な刺激を自ら求めさまよっているのかもしれません。)今年の米国アカデミー主演男優賞にノミネートされていた、私の好きなホアキン・フェニックス。彼が久しぶりに出演する「ザ・マスター」は絶対に見なければいけないだろう、とレイトショーへ。劇場内観客4名程度という人気のなさではありましたが、私には衝撃の内容でした。原作があれば読みたいぐらいですが、ポール・T・アンダーソン監督のオリジナル作品らしく、小説にはなっていないようです。主人公の男性は海岸で作った砂の女を恋人にしているくらい一人ぼっち。うわ、この孤独っぷりは私ではないかと思うぐらい、オープニングから引き込まれっぱなし。戦争帰りの彼は精神病院に収容されていたので、自分を異常だと判断する他人から距離を置きたかったせいもあるでしょうが、なんとか退院できて、仕事を始めるわけです。しかし、新しく知り合った女性とうまくいきそうになると酒が原因で失敗してしまいます。この男、なぜか酒を調合するのが天才的にうまく、乞われるままに作ったところ、相手の容体が急変、人殺しとののしられて、港に停泊中の船に逃げ込みます。それが新興宗教の「マスター」と信者たちの集いの場だったのです。「マスター」に心の傷を癒してもらった彼は、酒の調合の腕を買われたため、教団の一員となることを許され、共同生活を始めます。おそらく最初は教義に対して半信半疑ではなかったかと思うのですが、マスターが警察に逮捕されそうになったり、この宗教に懐疑的な人物から批判をされたときには容赦なく敵を攻撃します。その暴力性に手を焼いたマスターの家族が、自分たちの思い通りに手なずけ、敬虔な信者に変身させようと、来る日も来る日もふらふらになるまで彼に同じ修行をさせるわけです。そのシーンが見ててつらい。野生動物を無理やり家畜化しようとしているみたいで。一度悟りを得てからは表向きは従順に見える彼と3人で、ある日、オートバイで自分が決めた目標地点まで行って戻ってくる、というゲームを交代しながら楽しんでいると、最後にバイクにまたがった彼は二度と戻りませんでした。彼はその足で、自分が過去に愛した女性に会いに行ったのですが、結局彼女は既婚で幸せに暮らしていることを知り、またもや自堕落な道へと転落。深夜の映画館にかかってきた電話に出ると、それは英国に移住したマスターからでした。彼は自分が何か役に立てるなら、と期待して会いに行きましたが、マスターは意外にも厳しい態度で彼に選択を迫るのでした。また教団に戻るか、それともマスターに二度と会わないかを。彼は「来世でまた会おう」と茶目っ気のある返答で後者を選択するのですが、それに対しマスターは、「人は例外なくマスターを必要としている。もしかしたら君はマスターを必要としない最初の人間なのかもな。」「来世では、君は私の手ごわいライバルとして会うことになるだろう。」と言って、別れるのです。大分前なら、この「マスター」はキリスト教などの宗教上の神だったと思うのですが、宗教の力が弱くなったこと、また現代を生きる生身の人間の方がよっぽど影響力があることからマスターのような存在が力を持つようになったと思うのです。しかし、もともと宗教心の薄い日本人から見たら、マスターなしでも生きられるのがフツーだろ、と突っ込みたくなってしまったりもして。彼はその後、ベッドの上でマスターの言動を真似て女の子を笑わせるのですが、それは新たに彼が誰かのマスターになることを示唆しているようでした。この映画、とても深淵そうな問題提起を随所に含んでいるのですが、結局最重要のテーマって何よ?とすごく考えさせられるのです。今だに思い出しては、あの場面はどういう意味だったのだろうと考えてしまう。私は不覚にも、お互い思い入れのある男達が別々の道を歩む決意をする緊張に満ちた場面に人生の奥深さを感じさせて泣いてしまいました。きっと本来孤独を抱える人間同士が友情とか不思議な縁で惹かれあう人間関係、というのもテーマの一つなのでしょう。DVDが発売されたらより詳細に研究いたします。