だって、言いたいんだもん。

最近、仕事にしろプライベートにしろ、完全を目指そうとすると、もはや自分が処理しきれる量を超えているようで、指の隙間から砂がダダモレになっている自己イメージを思い浮かべてしまいます。私は平野啓一郎さんが唱える「分人」説に共感していて、一人の人間にもTPOによっていろんな顔があると思っています。会社の他にビジネススクールに通っているし、技術士の会合にも出かけるし、いくつかのサークルのメンバーでもあるし、各種イベントや飲み会の幹事もやってます。でも、なぜか私にとってはほんの一部の活動に過ぎないことに、一極集中を求められるのが解せないですね。仕事なら仕方ないけれど。こちらがお金を払っているような活動まで何故、ここまで要求されるのか?と言いたくなることがあります。自由人の私としては、他人に生き方を限定されるのがすこぶる苦手です。
まぁそれはそれとして、もう少し生活をシンプルにしないとダメだな、とも思ってます。部屋にはモノが多いし、スケジュールは過密状態。先日、母親の体調が悪くなったときに、母が仲介するはずだったお見合いの仲人役を依頼されそうになって(というか独身の私にやらせるか?)、私は午前・午後ともモリモリに予定が詰まっていました。両家の紹介だけを行うにしても10分しか同席できない、ということで、結局断ったのですが。これでは自分自身に急にそういう話が来たとしても、会う時間が作れないかも、とふと思いました。
先月、ある教養深き男性達と飲む機会があったのですが、彼らはその店に来る前に、読書会(専門の海外原著)を行ってから来たそうな。ターナーの作品がゲーテの色彩論の影響を受けていると説明してくれたり、シュールレアリズムに関するフーコーの発言を教えてくれたり、その場ではなんと応対したらよいのやら困っていたのですが、そういや現代思想をきちんと勉強したいと前から思っていたのに、と後になってから妙に刺激を受けて、mixi哲学書を読む読書会を探したりしてました。文系の研究者って「すぐにお金になる実利的な研究」から自由でいいよな、と感じました。
ちょっと関連しますが、会社の先輩が道元の「正法眼蔵」を読破して以来、ビジネス書の類を読むのが馬鹿らしくなって一冊も読んでいないと話していました。この方はうちの事業部のビジネスの数々の新規テーマにも概して否定的で、もう新規物質や新製品で世の中を豊かにしていこう、という気がなくなっちゃったんだなぁというのが傍からの印象です。しかし、私も現代日本において、モノに対しての切実な欠乏を感じません。もし、欠乏を感じたとしても、それをすべて埋めていくことが幸福なんだろうかと疑問に思ってしまいます。それでは、技術者としてどうしたいのか?と考えたときに、できれば精神的な豊かさを達成したいと思い、バイオテクノロジーとエンターテインメントの融合、あるいはバイオとアートの組み合わせ、を考えたいと言っていたりするわけです。「役に立つ」ことよりも「遊び心」を優先したいのです。一時的な気の紛らわせにすぎない、と批判されるかもしれませんけれど。
今後、もうちょっと突っ込んで「幸福論」を追究したいところです。